診察室での蝶の羽ばたきは地域で竜巻を引き起こすか?

毒を以て毒を制すタイプの精神科医

ゴール設定と抽象度

以前から Youtube で動画を拝見している青山龍さんという方が、年明けからブレイクスルー覚醒リーダー講座(無料)というのをされているので、登録して動画を拝見しています。

aoyamacoach.com

 

今、第2話まで配信しているのですが、その内容が面白かったので、備忘をば。

 

<目次>

 

 

 

 抽象度=どのくらい人を巻き込むか

 

 登録者限定の動画なので具体的な内容は伏せますが、第2話では「ゴール設定の4つの極意」として、以下を挙げていました。

  1. 現状の外側に設定する。
  2. 自分が心から達成したい(want to の)ゴールを設定する。
  3. バランスホイールを考える。
  4. 抽象度を考慮する。

中身が気になる方はブレイクスルー覚醒リーダー講座に登録して頂ければと思うのですが……。

ひとつ、抽象度については、

シンプルに説明すると、抽象度の高いゴールというのは、より多くの人が利益を得るゴールだと捉えて頂いて良いと思います。

 と動画の中で説明されていました。

例えば、1人で行く旅行よりも、家族旅行のゴールを設定した方が、一緒に旅行に行って楽しむ人が多いので、より抽象度が高い……というような説明が続きます。

 

 

他人のためなら頑張れる、こともある

 

 ゴールの抽象度という概念を自分の日常に当てはめた時に、割としっくり来る感じがありまして。

例えば、事務作業は死ぬほど嫌いだけど、患者さん相手の仕事がそれほど苦にならないのは、ゴールの中に患者さんという他人が入ることで少し抽象度が上がっているせいかもしれませんし……。

例えば、研究と聞くと足が竦んでしまうのに、上の先生方の話を聞いていると「研究って楽しそう」と思ってしまうのは、その話の内容が、研究の成果であったり、それが患者さんや精神医学に還元されていく過程も見据えているからで、これも抽象度が上がっているのかなぁ、とか。

もちろん、自分の利益を諦めて他人に奉仕するのは苫米地式コーチングでも否定されています( “ 自分も含めた” より多くの人の利益を考える)。かのジョルノ・ジョバァーナさんも、「覚悟とは犠牲の心ではない!」と仰っています。

http://slotaro.com/wp-content/uploads/2015/10/88_R-310x500.jpg

(画像は拾い物です)

 

 

 かのフランクル先生も同じようなことを言っている。

 

『夜と霧』で有名なヴィクトール・フランクル先生も、その著作の中で、こんなことを述べています。

あるとき、生きることに疲れた二人の人が、たまたま同時に、私の前に座っていました。それは男性と女性でした。二人は、声をそろえていいました、自分の人生には意味がない、「人生にもうなにも期待できないから」。二人のいうことはある意味では正しかったのです。けれども、すぐに、二人のほうには期待するものがなにもなくても、二人を待っているものがあることがわかりました。その男性を待っていたのは、未完のままになっている学問上の著作です。その女性を待っていたのは、子どもです。彼女の子どもは、当時遠く連絡のとれない外国で暮らしていましたが、ひたすら母親を待ちこがれていたのです。そこで大切だったのは、カントにならっていうと「コペルニクス的(注*「コペルニクス的転回」は、客観が主観に依存するという自分の認識論の立場を、カントがコペルニクスの地動説創唱の意義になぞらえたことば。転じて、従来の考え方とちがう画期的な見方・状況のことをいう。)」ともいえる転回を遂行することでした。それは、ものごとの考えかたを一八〇度転回することです。その転回を遂行してからはもう、「 私は人生にまだなにを期待できるか」と問うことはありません。いまではもう、「 人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。

 

ヴィクトール・フランクル『それでも人生にイエスと言う』Kindle版 No.272-283

これも、コーチング的な視点で読み直すと、「自分が人生に何を期待するか」という抽象度の低い点から、「人生から何を期待されるか」という抽象度の高い点に切り替えることによって、コペルニクス的転回を図った……というようにも読み取れるような気が致します。

 

*** ***

 

もちろん、闇雲に抽象度を上げれば良いというものでもないでしょうが、やる気が起きない時や精神的に疲弊した時は、眼の前の目標(ゴール)の抽象度を少し上にズラしてみても良いのかもしれません。

 

 

それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う